着倒した服は、もう既に「みっともない服」になっているのかもしれない。
前回の記事の続きです。
「物持ちがいい」って、単純に所持している長さだけを指しているだけだと危険だなぁと思った話なのですが、同時に思ったことがありました。それは、「着倒した」と判断する時のボーダーラインの設定についてです。
あまり出番がなくて、今後も着なさそうだから処分する服って、変な言い方ですけれど、結構いい状態のまま処分すると思うんですよね。悪い状態になるほど着ていないから。
けれど、クローゼットのミニマル化を進めて行って、高稼働な服だけになってきた時。その時に処分する服は「十分この服を着倒したぞ」と思ってから処分する服な訳で……そこそこもう消耗しているんですよね。
毛玉がついたり、ゴムが伸びたり、色褪せたり、レースがつれたり、ほつれたり、うっすらシミが残っちゃってたり。
その状態で「もう十分だ」と判断してから処分するのですけれど……これってもう、もしかしてずっと前に「みっともない服」になってたりするのかもしれないな、と。そんなことを、はたと思ってしまったんです。
高稼働で、日々着て、洗濯して、しまって、また着る。その繰り返し、ひたすらに繰り返し。そんな中で状態のチェックって、あまりしないですよね。だから状態が悪いのに気づかないのかもしれません。
あるいは、気づいているけれども、重きを置いていなかったり、気付かない振りをしているのかも。だって自覚してしまうと、その服の処分を検討しなくちゃならない訳で。でも高稼働な服ってなかなか見つからないから、入れ替えは容易ではなくて、それで手放せない。だから気付かない振りをする。
自分では認めていないけれど、状態のよくないその服は、もう「みっともない服」なのかもしれません。
でも気付かない「振り」をしたところで……本当はやっぱり気付いているんですよね。消耗している服を着続ける。困らないけれど、なんとなくテンションが下がる。そう思うと。自分の中で、手放すタイミングをシビアに設定しておいた方がいいのかもしれません。本当に「着倒した」と思った時には、もうその服は既に「みっともない服」になっているのかもしれないから。
「みっともない服」。
高校生の頃だったか。3,000円位の安いコートを愛用していたことがあります。ポリエステルで暖かくもないんだけれど、黒のAラインで、丸襟にくるみボタンの、クラシックで可愛いデザインがお気に入りでした。あまりにお気に入りすぎて、そう本当に「着倒した」と胸を張って言えるほどの服でした。
でも自分では、「着倒した」というよりも「ずっと着ている」服で。完了してなかったんですよね、現在完了進行形というか。親に「もうみっともないからやめなさい!」と言われても着続けていました。まだ着られる!、と。そしてある日、知らないうちに処分されていました。泣きました。
あの時も、私はその服が「みっともない服」になっていることに、全然気付かなかったんです。毎日着ている服だから、客観視できなかったのもあったのでしょうね。
さて、30歳の大人になった今。私は自分の服を客観視できているのでしょうか。まだ着られる!、と、既にみっともなくなった服を着続けていないでしょうか。
出産をして母親になって30台になって。流石にもう若さでパワフルに古さを吹き飛ばせていた20台とは違う気がしてきました。自分でちゃんと、「みっともない服」になる前に、決断していかなくちゃいけないですね。
断捨離しよう、クローゼットをミニマムにしよう、とすると、どうしても出番がない服に注意が行きがちです。でも本当に注視すべきなのは、高稼働な服なんだなと。そんなことに改めて気づいた秋の始まりでした。さって、クローゼットのチェックするぞー!